ある心臓外科医からの手紙


ある心臓外科医からの手紙【前編】R.ファバローロ

2018年3月26日掲載

─―デスクに置かれた突然の手紙

 

 D.エフラー博士は、心臓外科が黎明期からの専門医で、人工心肺を用いた心停止下での開胸術を成功させていた。クリーブランド・クリニックの外科を任されていた彼は、1971年のある日、自分のデスクに封筒が置かれているのを見つけた。

 

 中は手紙で、心臓外科チームに所属するR.ファバローロ医師からのものであった。ファバローロは心臓血管外科のあり方を大きく変える医学的功績を あげ、クリニックの評価をさらに高めたことから、若い医師たちを指導し、その目標となる人物として次のステージに立つことを求められていた。つまりクリー ブランドにいれば、クリニックの栄光を代表する存在として、一生安泰の生活を約束されるのだ。

 

その彼が辞職すると言い出したのは突然のことで、エフラーも心臓外科の同僚たちも驚いて止めたのだが、彼は決心を変えないまま、ついにその日を迎えたのだ。

 

─―無給の助手からの出発

 

 エフラーがファバローロと初めて出会ったのは、1962年の2月。

 最初は単なる見学目的のアルゼンチン人医師という認識だったのだが、その場で自分を雇ってくれと言い出した。

 

 しかし、アルゼンチンの医師免許は合衆国では通用しないことを説明すると、今度は「勉強させてもらえるなら、給料もいりません」と食い下がる。

 事情を聴くと、彼はラ・プラタ河が流れる大草原「パンパ」の小さな町で病院を開業していたのだが、最新の心臓外科学を身につけようと決心し、自分の病院を処分した上で、妻と二人で渡米したのだという。

 

 つまり夫婦ともども、帰る場所はないのだ。エフラーは断りきれなくなり、彼を無給の下級レジデントとして受け入れることにした。

ルネ・ファバローロ(1923-2000)

 

─―38歳、アルゼンチンなまり

 

 しかし、彼はすでに38歳。これから最新の心臓外科学を身につけるには、遅すぎるスタートだ。アルゼンチンなまりの片言英語を使いながら、手術室で下働きを務める彼に期待する者は皆無と思われた。

 

 だが彼に注目している医師が一人だけいた。世界で初めて冠動脈造影に成功したM.ソーンズは、ファバローロが毎晩、心カテーテル室に保管されてい る膨大な冠動脈造影フイルムを映して見ていることを知っていた。面倒見がよく男気のあるソーンズは、努力する人間には協力を惜しまなかった。

 

 彼は、映像から血管の状態を判断する読影術を、ファバローロに根気よく教え続けた。


ある心臓外科医からの手紙【後編】決意の渡米 - 全ての患者を助けるために

2018年4月18日掲載

―虚血性心疾患治療の王道

 

 1967年、ファバローロが自ら考案した世界初のCABG(冠動脈バイパス移植術)で心筋梗塞の治療に成功したことは、広く知られている。57歳 の女性患者は右冠動脈に閉塞を起こしていたが、脚から採取した静脈を用いて世界初のバイパス手術を行い、救命することができたのだ。クリーブランド・クリニックに来て、わずか5年での快挙であった。

 

 このとき実施された術式は、右冠動脈の閉塞部を切除し、切除された部分を修復する形で、下肢の伏在静脈をグラフトとして2か所の端々吻合により置換するものだ。この後1970年には、今日の術式に近い内胸動脈を用いたCABGにも成功している。

 

 ファバローロが始めた冠動脈バイパス術が虚血性心疾患治療の王道として位置づけられるのに、時間は掛からなかった。最初は大学病院や大病院で行われていたが、狭心症の患者はアメリカに何十万人も存在していたため、まもなく中規模の病院にも急速に広がっていったのだ。

 

冠動脈の閉塞部を伏在静脈で置換
(Favaloro R G: Ann Thorac Surg. 1968 Apr; 5, 4:334-9より)

―渡米した本当の目的

 

 辞職を申し出たファバローロを、エフラーは何度も慰留したのだが、彼の決心は固かった。ソーンズは「クレイジー!」と吐き捨て、せっかく育てた弟 子ともいえる彼に期待を裏切られた悔しさをぶちまけた。ファバローロは「もう、逃げ出すしかない」と心を決めるしかなかった。その結果が、この置き手紙だ。

 

 エフラーが手紙を開くと、そこにはファバローロが帰国を決意するに至った理由が書かれていた。

 

 「あなたもご存じのように、ブエノスアイレスに真の心臓外科はありません。金持ちなら、アメリカに渡って治療を受けられます。金持ちでなくても、 自分の家を持っていれば、それを売却してアメリカに渡る人もいます。しかし、どうしてもアメリカに渡れない人は、ゆっくりと、しかし確実にやってくる死を 待つしかないのです。私は、残されたあと三分の一の人生をブエノスアイレスでの心臓センター設立に賭けるため、母国に戻ります」

 

 1975年、ファバローロはクリーブランド・クリニックをモデルに、総合病院と専門クリニックを統合した診療センターをブエノスアイレスに設立した。そのセンターの運営ポリシーには、次のように書かれていた。

 

 「どのような患者でも、診療費を払えないという理由で、ここから追い出されることはない」